王の私室は、閉ざされている。
先ほど、内側から鍵が掛けられた。
螺旋は深い溜息をついた。
この悔しさをどうすればよいのだろう。
誰が悪いわけではない。風明の言葉を信用するのなら、流虎の法王も被害者なのだろう。
神の気分ひとつでここまで混乱をきたし、自分がなんの力にもならないのが、悔しい。
今朝までは、この平安がいつまでも続くものだと思っていた。
授業を怠けては外出する高蘭王を叱り、他の皇子たちの勉強の手伝いをし、向学心旺盛な狭霧の学問を見、また方術の指南をして、王の執務の補助も行う。
学者としては身を立てられないが、ここでの暮らしは自分に合っていると思っていた。学生時代に始めた槍も、趣味で終わると思っていた。
いま、その全てが覆されたのだ。
槍を取ってこなければ。
自分の槍で、高蘭王をどれだけ守れるかわからない。だが、風明と約束した以上、命を賭して守らねばと奮い立たせた。
「先生!」
ふと顔を上げると、狭霧が走ってくる。
「狭霧。どうしたんです、姫さまは」
狭霧は首を振った。
「姫さまはお逃げになりません」
ばかな、と思わず大声が出てしまい、狭霧を驚かせた。
「あ、すまない。お逃げにならないとは?」
「国を、民を捨てて逃げることはできぬと」
「王の勅命ですよ」
承知しております、と狭霧は頭を下げた。
「姫さまは神殿に籠もられました。わたしは、死んでも姫さまをお守りする所存です」
ああやはり。
この子は、そういう子だ。
「狭霧。あなたの忠誠心には感心しますが、姫さまの安全のためには、逃げたほうが」
逃亡を望むのは、身の安全のためだけではない。残雪は、瑠円の宝石と称されるほどの美貌を持っている。侍女である狭霧も、可憐で人目を引く容姿をしている。この城が落ちたらどうなるか、安易に予想がつくのだ。
「こういう時、女性は悲惨な目に遭います。あなたなら、わかるでしょう」
「はい……でも、わたしは姫さまと共にありとうございます」
残雪は分かっているのかもしれない。
流水や楼に逃れても、真の意味での逃亡ではないのだと。
楼に逃れたら、都合の良い様に利用されるだけだろう。瑠円が瓦解すれば、流水との縁組も解消するだろうから、他の国へ嫁せられるかもしれない。或いはあれだけの美貌を持っているのだから、皇帝の愛妾に召し上げられるかもしれない。小なりとはいえ、一国の姫が愛妾などとんでもない話である。
流水も同じことである。楼との交渉の材料にされるだけであろう。
結局、安住の地など残雪にはないのだ。
この、瑠円しか。
「わかりました……では狭霧、姫さまをお守りしてください。決して無茶をしないように」
この言葉が無駄だとは分かっている。きっと、この子なら残雪の為に、ためらいもせず命を投げ出すだろう。その姿が安易に想像がついて、せつなくなる。
「先生、皇子はいずこです」
「高蘭王皇子ですか」
「はい。姫さまが、心配しておいでです。居場所を知る者が、城中にいないのです」
螺旋の全身に、戦慄が走った。
「皇子……城にいないのですか」
「では先生も、ご存じないのですね」
螺旋は首を振った。嫌な予感が巡る。
「狭霧、心配しなくても皇子はわたしが、お捜し申し上げます。そう姫さまにお伝えなさい。ここが騒動の渦中になるのも、時間の問題です。わたしは槍を取って戦時に備えます、早く」
狭霧の目には涙が溜まっていた。
「先生……先生の授業、とても面白かったです。もっと、教わりたいことが沢山ございましたのに」
愛おしさがこみ上げて、思わず狭霧を抱きしめた。
「生きていたら、いずれまた会うこともあるでしょう。その時また、講義をしましょう。常に勉学する心を忘れずに。いいですね」
螺旋の腕の中で、狭霧はうなずいた。
「先生、どうかご無事で」
「あなたもね」
狭霧は腕から離れると、振り向かずに走っていった。
あの子に教えた少しばかりの方術が、役に立ちますように。
すでに見えなくなっても、螺旋の目は回廊の奥を追っていた。
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